短編小説『冬の落とし子』

文:ローゼンダルス
挿絵:コイケケイコ

 ほとんど傾斜を感じない、それでもこのあたりの皆が坂道と呼んでいる道を、孫の手を引き歩くのが日比野弘子の日課のようになっている。弘子の娘・真希がまだ幼かったころも、こうして毎日、真希の手を引いて、この道を歩いた。この道の先には真希が通った保育・幼稚園がある。幼かったころの真希は、この保育園がお気に入りだった。週末、保育園が休みの日でも、保育園へ行くのだと弘子にせがんだ。
 当時、弘子と真希が住んでいた家は、この坂道を下った、ちょっと陽当たりの悪い丘の陰にあった。真希が中学校へ通うようになったころ、なにかといつも世話を焼いてくれる隣人の仲介で、現在の陽当たりのいい家へ引っ越すことができた。
「これで洗濯物がよく乾くね」と真希が言ったことを、弘子はよく覚えている。それまでの家は、冬はもとより、雪のないシーズンでもほとんどお日さまが当たらなかったので、真希が学校へ着て行くブラウスや体操着などが乾かず、弘子を困らせた。しかし、真希はそんなことをいっこうに気にする素振りを見せず、「着ていれば乾くけん」とか、「私は汗っかきだから、どうせ体操着はびしょびしょになるんやから」などと言って、さっさと生乾きのブラウスに袖を通して、学校へ出かけた。

 弘子は東京で生れ、ずっと東京で育った。短大を卒業し、父親のコネで輸入貿易会社へ就職した。仕事はいわゆる一般事務だが、真面目に働き続け、とくになにもなく10年が過ぎ、30歳のとき、3歳年下の取引先の会社員と出合った。彼と付き合い始めてすぐに、同僚は「女の幸せをつかむ、最後のチャンスだから」などと、口うるさいことを言った。特に年齢のことなど気にしたことはなかったのだが、言われてはじめて、ああ世間というものはそういうものかと思うに至った。そうなると、結婚することが当たり前のように感じられ、事実、半年後には結婚してしまった。
 結婚してすぐ、夫が札幌に転勤になり、それに付いて札幌へ引っ越した。夫はそれまでの弘子の仕事を気にかけ、辞めてまで付いてくる必要はないとか、どうせ2年で戻れるのだからなどと言ってくれたが、夫婦が離れて暮らすことこそ、そんな必要はないと思った弘子は、会社を辞めて、札幌で暮らすことを選んだ。東京以外の暮らしを知らない弘子にとって、札幌は未知の土地であったが、結婚生活そのものが未知なのだから、どこで暮らそうが大きな違いはないように思えた。あまりに唐突にいろいろな事態が展開することに、「女の幸せ」とは、そういうことかと、漠然と思った。

 引っ越してまもなく、弘子は妊娠した。この時だけは、正直、弘子も戸惑った。せっかくなら、少しは新婚というものも楽しんでみたかったし、なによりも、こんな誰も知り合いのいないような土地で子供なんて考えてもいなかった。夫は2年で東京に帰ると言っていたのだから、子供はそれからだと思っていた。
 病院で検査を受けた日、帰宅した夫に妊娠を告げた。夫はただ「そうか」と言って、冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出し、飲んだ。別になにか特別な夫のリアクションを想像していたわけではないが、あまりの平然とした態度に少々拍子抜けしたことを覚えている。
 その後の会話が無くなってしまったので、弘子は立ち上がり、ちょうど目に入った夫の背広をハンガーに掛け直し、ブラシをかけ、タンスに仕舞った。
「身体に気をつけてな」……たしかに、そう聞こえたような気がしたので、夫のほうを振り返ったが、夫は新聞を読んでいたので、気のせいだったかもしれないと今ではそう思っている。
 東京の両親は「東京に戻って産め」と言ったが、別につわりがひどいわけでもなく、普段の生活には驚くほどなにひとつ不自由があるわけでもなかった。せっかく夫について札幌に引っ越してきたのだから、これで離れて暮らしたら、なんのために来たのかわからないという思いもあった。

 妊娠期間中、夫は家を空けることが多くなった。小さな営業所の少ない人数で、全北海道エリアをカバーしなければいけないため、道内の出張が多くなったのだ。雪の深々と降る夜、独りアパートの部屋で過ごすときは、さすが少々心細くもなったが、夫はかならず出張先から夜電話をくれたし、帰宅する際には、ご当地のおみやげなども買ってきてくれることもあった。
 こうして、札幌で真希が生まれた。真希は、本当に健康で手が掛からない子供だった。子育ての経験のない弘子には、なによりもそれがありがたかった。
「おまえ独りで大丈夫か? 手伝いに行こうか?」。東京の両親は心配してくれるのだが、弘子にとっては本当になんの心配も苦労もなかったので、「大丈夫だから」としか言いようがなかった。今考えれば、初孫の顔を見たい一心だったのだとわかるが、あのときは「すぐに帰るんだから、飛行機代がモッタイナイから来る必要はないから」などと、親心を読めない発言をしたものだった。

D3X_2102

 真希が4歳になるころ、夫は突然、家を出て行った。数日後、判を押した離婚届が届いた。2年で東京へ帰るということはなく、札幌での生活はすでに5年が過ぎていた。これはあとから夫の会社の人から聞いたことだが、2年目にも、4年目にも東京へ戻る話はあったそうだ。しかし、夫のほうがそれを拒んだのだという。
 これも後から知ったのだが、夫にはもうひとつの家庭があったそうだ。会社の人は皆知っていて、夫に「どうするつもりか」と常日ごろから問いただしていたらしい。
 夫の家出と離婚届を前にしても、弘子は別に特別な感情は湧かなかった。弘子と真希は、文字通り「捨てられた」わけだが、それがどうしたというような感じであった。捨て鉢だったわけではない。本当になんの特別な感情が湧かなかったのだから仕方ない。
 弘子自身はそんなふうであったが、流石に「お父さんはいつ帰ってくるの?」と真希に聞かれたときは少々耳たぶが熱くなった。
「お父さんはもう帰ってこないのよ」と真希に伝えると、真希は「ふーん」と言って、以来、二度と父親の話はしなくなった。
 東京の両親へ離婚の報告をしたときは、「すぐに戻ってこい」と言われたが、弘子は札幌で暮らすと伝えた。これも、特別な意味はなかったのだが、離婚と引っ越しをいっぺんにこなすのが、面倒なだけだったと思う。
 もうひとつ、後から知ったことは、夫はそのもうひとつの家族のところへ行ったわけではなかったということだ。真希が5歳になったころ、手紙をもらった。見知らぬ名前だったが、差し出し主は、夫のもうひとつの家族からだとわかった。あまり興味がなかったが、読まないという理由もなかったので、つらつらと読んでいると、どうやら夫はその家にも寄りつかなかったらしいことがわかった。半分くらい読んだところで、本当に興味が失せたので、読むのを止め、そのまま手紙をごみ箱へ捨てた。

 ニセコへ引っ越そうと思ったのは、そのころだった。ある日、テレビを見ていたら、お笑い芸人がスキー場のゲレンデで雪の落とし穴に落とされて、上から雪をかけられるというドタバタを演じていた。テレビ画面の下のほうに、ニセコからの中継とティロップが出ていた。
 札幌へ越してきて以来、弘子は札幌以外の北海道の土地へ出かけたことがなかった。しかし、まだ弘子が貿易商社に勤めていたころ、3つ年上の先輩女子社員が、冬のボーナスをつぎ込んでニセコへスキーに出かけていたことを覚えている。だから、ニセコという名前はよく聞かされていたのだ。
「ニセコは雪が違うの。関東の雪は湿気が多くてベタベタで全然ダメ。ニセコは特別よ。さらさらしているの。だって、ぎゅっとにぎっても雪玉にならずに、はらはらと落ちちゃうんだから。ニセコを知ったら、もうほかでは滑れないわ」。昼食どき、先輩は2ブロック先まで走って買いに行ったワンコイン弁当を頬張りながら、ニセコの魅力を熱弁していた。

 弘子はニセコがどこにあるのか、まるで知らないことにあらためて気が付いた。というより、札幌へ引っ越してこの方、札幌こそが弘子にとっての北海道であり、そのほかの土地はまったく知るよしもなかったのだ。
 弘子はテーブルから立ち上がると、押し入れを開け、中から夫が残したものを詰め込んだ段ボール箱を引っ張り出し、中をあさった。夫が帰らないことを認識したあと、それでも「送って欲しい」といつか連絡があるといけないので、整理したものが、そのまま眠っていたのだ。
 その箱の中に、夫が仕事で使っていた北海道のロードマップがあることを、弘子は鮮明に覚えていた。それどころか、その箱の中に詰め込んだものすべて、詰め込んだ順番まで、鉛筆の1本まで覚えているのだ。記憶のとおりの順番で、夫の荷物を探り出し、段ボールの一番底にあるロードマップを手に取った瞬間、弘子の目から涙があふれた。夫がいなくなってからはじめて、弘子は泣いた。なにが悲しいのかも、自分ではよくわからなかった。しかし、あとからあとから涙はあふれ出し、そして大きな声を出して、弘子は泣いた。
 テレビからは、陽気なお笑い芸人の声が、聞こえていた。こんな時に、なんて場違いな番組だと思った。が、3年も前に離婚した夫の荷物を引っ張り出して、いまさらわんわん泣いている自分に気が付いたら、場違いなのは自分だと思った。そう思ったら、なんで泣いているのか、ひどくバカらしくなり、ロードマップ以外を、今度はぞんざいに箱の中に放り込み、部屋の隅へ足で蹴飛ばして、テーブルへ戻って、テレビを消した。

 ロードマップを開き、巻頭の北海道全図から札幌を指さし、周囲をぐるりと探ったら、あっけなくニセコが見つかった。なんだ、札幌からこんなに近いのかと弘子は拍子抜けした。
 引っ越しというイベントを思いついたとき、弘子の頭のなかでは、北海道の地図の一番上のほう、北の果てへ向かうたくましい女性の姿が浮かんでいた。そこが、弘子の向かうべき荒野・ニセコだった。それが実際のニセコは、弘子の生活圏からこんなにも近く、おまけに札幌より下、南にあるのだった。6年ほど札幌の冬を経験した弘子にとって、北海道の最北ならともかく、札幌の南にあるニセコの雪がどれほどのものかと思ったことを覚えている。
 なんとなくやる気を削がれたが、でも近いほうが引っ越しがラクチンなどと思った自分に、さっきまでの最果ての地を目指す誇り高き女はどうした、と少々呆れた。時計を見たら、幼稚園に真希を迎えに行く時間だった。

 その翌日、真希を連れ、大通り公園の不動産屋へ行った。ニセコのアパートを探していると伝えると、いくつかの物件を紹介してくれた。その中にひとつだけ一軒家があった。なんで安いのかと聞くと、物件が古いし、町中から離れているという。
「このあたりは、冬場は結構雪が深いんですよ。でも、その分、春にはキレイな花が咲いて、親子のキタキツネが出てきたりしてね。子供さんが遊ぶには最高ですよ」。担当の若い不動産屋の男性は、まるで見てきたかのような口をきいた。
「そう素敵ね。エゾリスはいるかしら?」と弘子はたずねた。男性は「それりゃあ、エゾリスなんていっぱいいますよ。ヘタに餌付けなんてしてみなさい、奥さん。そこいら中、エゾリスだらけになって、家ごと乗っ取られてしまいますよ」と、また知っているような口をきく。
「リスがどうしたの?」と、横から真希が会話に加わった。
「このお兄さんがね。リスの棲んでいるお家を紹介してくれたのよ」
「いや、今は別にリスが棲んでいるわけじゃないですよ、奥さん。でもお嬢ちゃん、リスは好きかなぁ? それともキツネさんかなぁ?」などと、真希を極端に子供あつかいする男性を見ていたら、なんかここはひとつコイツに騙されてみるかという気持ちになり、「そこにするわ」と答えていた。
 呆気なく物件を決めた弘子に少し驚きながらも、じゃあ現地の仲間の不動産屋へ連絡をするから、見学はいつにしますかなどと、急に事務的にいうので、見学はしない、そこでいいから、いつ引っ越せるのか段取りを組んで欲しいとお願いした。
「大丈夫ですか、現地も見ないで……」、男は急に心細さそうな声を出すから、「だって素敵なところなんでしょ? キツネもリスもいて、春には花が咲いて。いいじゃない。ねえ、真希ちゃん」と言ってやった。それからかんたんな申し込み書を書き、手付けを打って、弘子はさっさと店を出た。

D3X_2000-2

 弘子は、春のこの坂道がことさら好きだ。道の両側の草原からは、春の草花の薫りが鼻をくすぐる。長い冬が終り、暖かな春の陽射しのなか、この道を歩いていると、弘子は幸せを感じた。
「ねえばあば、次のお泊まりはいつ?」
 さっきから鼻歌交じりに、小さなスキップをする可憐がたずねる。
「さあ、明日、ママから電話のある日だから、聞いてみましょうね」
 最近、あまり頻繁に電話をかけてこない母親のことが、可憐は気になっている。母親は、自分のために、札幌というところで、お仕事をしながらがんばっているから、少々寂しくても自分も我慢しなくちゃと、この幼い子は理解はしているのだ。だから、可憐が弘子に母親の帰りを確認することは、あまりない。でも、いつでも寂しい気持ちでいっぱいなのだろうと弘子は思う。可憐は、弘子の顔を下からのぞき込むよう言った。こういうときの可憐の顔は、母・真希の顔にそっくりだ。
「ママは、可憐のこと忘れちゃったンじゃないかなぁ」
「あら、そうかしら。じゃあ、可憐はママのこと忘れちゃった?」
「ううん。可憐は毎日毎日、ママのこと考えているよ」
「じゃあ、ママも可憐のこと、毎日毎日、考えているよ」
ふふふっと小さな笑い声を発して、可憐は弘子の手を強く握り直した。軽くスキップをする可憐のやわらかな、明るい栗毛の髪が静かに揺れている。春の花の薫りが、可憐の美しい髪を撫でたような気がした。

「妊娠した」と、ある夜、真希から聞かされたとき、流石の弘子も少々驚いた。真希はまだ高校3年生だったし、ボーイフレンドがいることくらいは聞いていたが、まさか、子どものことまでは考えが至らなかった。本当は、相手は誰とか聞くべきなのだろうけれど、なぜか言葉が浮かばず、弘子は沈黙し、風呂上がりの髪を乾かしていた。
「怒った?」。真希は、弘子の顔をのぞき込んだ。こちらのご機嫌を伺うときの真希の顔は、幼いころのそれと変わりがない。むしろ、なにも言葉を発せなかった弘子にしてみれば、真希のご機嫌を伺いたいくらいだった。
「怒ってはいないけど、まあ少し驚いたかな」
「そう、じゃあよかった。怒られたら、どうしようって、ずっと考えていたの。ちょっとほっとした」
 そう言うと真希は、安物のソファの上にどすんと大きな音をたてて座り込んだ。ああ、などと呑気な声を発し、そのまま横になってしまった。まるで点数の悪いテストの解答用紙を、意を決して母親に見せたときのようだなと弘子は思った。
 しばらくの沈黙がつづいた後、まあここは親としてなにか言わねばならないのかと思い、弘子は重い口を開いた。
 「それで、どうするつもりなの」
 「ウン、ちょっと困ってしまっている。迷っている、ってのもある」
 「そうね。相手があることだものね。あなたたち、高校生だものね」
 ちょっとした沈黙の後、「違うよ」と真希は言った。
 「えっ、いつか家の前まで送ってくれた男の子じゃないの」
 「ウン、違うんですよ。彼じゃなーい」
 「あら、そう」と弘子は月並みな言葉を発したが、会話はそのまま途切れた。真希は、安物のソファに寝ころびながら、じっと天井を見上げていた。弘子は、問いただしたほうがいいのか。それとも、今晩はそっとしておいたほうがいいのか迷ったが、結局、その夜はそれ以上なにも聞き出すことはなかった。

 おなかの中の子どもの父親が誰かを知ったのは、3日後、倶知安のパン屋に寄ったときのことだった。そこでアルバイトする真希の同級生に、彼女はいつもこっそりとオマケをしてくれるのだが、店を出た直後、「おばさん、ちょっといいですか」と呼び止められたのだった。真希から妊娠を聞かされ、相談を受けていたその子は、真希の結論に対し、異論と唱えた。
「あり得ない。おばさん、絶対に諦めさせてください。もう真希は私たちの言うことなんて全然聞かないの。こういうときは、親がビシッとしかってくれないとダメなの。あり得ない」と、少々興奮気味にまくし立てた。
「だって、おばさん、あり得ないでしょ? ああ、もう絶対にダメ。ああ、あり得ない。おばさん言って、真希に。ホントに」。支離滅裂である。
「ちょっと落ち着いて。真希のこと心配してくれてありがとうね。でも、実はおばさん、あまりくわしいことは真希に聞いていないの」と正直に答えた。
「えっ、じゃあなに? ホント、おばさん、あり得ない。ひょっとして子どもの父親のこと知らないの? ええっ、おばさんもあり得ない、本当、もう……」その後もさんざん「あり得ない」を連発するだけで、一行に要領を得ない。
 「ゴメンナサイね。本当にいろいろ心配してくれてありがとう。じゃあひとつ教えて。真希の子どものお父さんは誰なの?」

D3X_2100

 ほとんど傾斜を感じない、それでもこのあたりの皆が坂道と呼んでいる道を、弘子は可憐の手を引いて歩いている。こうしていると、可憐は真希で、弘子も真希だ。ちょっとしたデジャブのような感覚に襲われることもある。でも、こうして春の光の中、孫の手を引き、いっしょに歩いていると、弘子は単純に幸せを実感するのだった。
 可憐は、父親の血が強く出た(と、近所の人たちがいうのだが)のか、髪はきれいな栗毛で、顔立ちもしっきりした、いわゆる「外人顔」だった。まだ幼いから、本人は気にしていないのかというと、そうでもなく、やはり幼稚園のお友達と自分がちょっと違うことを気づいているようだった。子どもには、子どもの悩みがあるのであろう。でも、弘子は可憐がきっと美人になるだろうなどと、少々呑気に考えている。祖母である弘子から見ても、ひいき目を差し引いても、可憐は本当に、絵に描いたような、お人形さんのようなカワイイ女の子なのである。その面影には、特に目元なのだが、真希のそれも見て取れる。
 可憐の父親はオーストラリア人だった。数年前、ニセコにオージーブームが起きたことがある。巨額のオーストラリア資本が投入され、あたりのペンションやホテルはみんなオーストラリア人のものになってしまった。そして、オーストラリアからたくさんのスキー客がやってきた。あのころのニセコは、英語の看板のほうが多いくらいだった。
 高校3年生だった真希は、冬休み、スキー場のアルバイトに行って、当時、オーストラリアからスキーのインストラクターとして来日していたその人と出合った。
「今考えれば、別に普通の人だったんだけどね」と、可憐を産んだ後、真希はからりとそう言ったくらいの、普通のオージー青年だったらしい。弘子が、真希から妊娠を聞かされたとき、すでにその青年はニセコにはいなかった。スキーシーズンは終れば、彼らはちりぢりに、また別のスキーリゾートへ行ってしまうのである。真希は一応、その青年に妊娠のことを告げたが、態度があいまいなまま、その青年は姿を消した。はじめのうちはメールのやり取りなどがあったようだが、そのうちにそれもとぎれたそうだ。そんな相手だったから、真希も悲恋とかそういうふうには考えることも出来ず、でも漠然と子どもは産みたいと、高校3年生の子どもながらに思ったようだった。そして、追い討ちをかけるように、ニセコのオージーブームは去り、大勢いたオージーたちも姿を消し、その青年も二度とニセコへやってくることはなかった。

 「ばあば、今日ね。幼稚園でお手紙書いたの」
 「あら、いいわね。誰に書いたの? ママかしら」
 「ウン、ママ。それとばあば。帰ったら、ばあばにお手紙あげる」
 「まあ、うれしいわ。ばあば、早く可憐のお手紙読みたいわ。きっとママも早く可憐のお手紙読みたいわよね」
 「ウン、次のお泊まりはいつ?」
 「今晩、ママに聞きましょうね」

 可憐は鼻歌交じりに、軽くスキップを繰り返している。母親と離れて暮らす可憐を、いつも切なくに思うが、こうして、可憐といっしょに過ごす日々は、弘子にとって普通に幸せだった。弘子がいて、真希がいて、そして可憐がいる。
 「女の幸せかぁ」
 弘子はそう口にだしてみた。
 「ウチには父が不足しているけどね」
 そう呟いてから、弘子はちょっとだけ、真希と可憐に申し訳ない気持ちになった。

〈了〉