短編小説『GO AROUND』

文:ローゼンダルス
挿絵:コイケケイコ

 「はい、どーぞ」、自分としてはかなり高目の声をかけ、前に出した左手の手の平を自分の方へくるりと裏返し、体に引き寄せる。お客は、その合図に合わせ、スルスルと前へ進み、停止線のところで止まる。その動きに合わせ、お客様がちょうど止まるタイミングを見計らって、今度は左手で停止線を指し、「ハイ」と声を発する。この「ハイ」の声があるとないとでは、実に大きな差がある。どんなに小さな声でも「ハイ」と言えば、なぜか人はそこで止まるのだ。
 同時に、右手からやってくる座席の座面を右手に持った箒で、さっとひと撫でし、雪を払う。これも、たいして雪が降っていなくても、さっと雪をはらうことで、お客の印象が違うのだ。そして、お客の背後に、いよいよ座席が接近するや否や、ここがさらに肝心なのだが、左手で座席のアームをつかみ、一瞬の“溜め”を作ってあげる。これはお客が安全に、そして安心して、着席できるようにするためだ。もちろん、お客が着席するタイミングにも、ふたたび「ハイ」と言ってあげることも大切だ。これは一拍間を開けるくらいがよい。先ほどの「ハイ」と同様、これも発するとしないとでは、大きな差がある。
 そして、お客が確実に着席したことを確認する。確認はしているが、同時に、実はふたたび「はい、どーぞ」と高目の声を発し、手を延ばしている。
 佐久間忍にとって、この繰り返しが、この冬の日常である。朝8時から夕方まで、ときには夜の9時ごろまで、途中の休憩時間を除いて、このヒラフスキー場のリフトのいずれかの場所で、この作業を繰り返している。

 「リフト乗り場の係員募集」という求人広告を見つけた時も、「楽勝だ」と思った。決してスキーが好きでも、得意でもない忍であっても、さすがにスキー場は馴染みの場所であるから、「ああ、あの仕事ね」と瞬時に仕事を“安く”値踏みした。履歴書を持って、面接に行った時も、「スキーは?」と聞かれたから、「もちろん」と答えたら、「じゃあ、わかるよね。地元だもんね」とあっさり採用されたのだ。だから、やっぱり忍は「楽勝!」と心の中で手を打った。
 初めて、“職場”へ出た日、かんたんな事務登録処理の後、「じゃあ、この制服に着替えたら、第1リフト乗り場の神田さんを訪ねて」と言われた。事務所の奥のカーテンで仕切られただけの「男子用更衣室」と張り紙がされたスペースでそそくさと着替え、ユニフォームの入っていた紙袋に自分の洋服を積め、第1リフト乗り場へ向かった。心の中で「楽勝、楽勝」とつぶやいていた。
 第1リフト乗り場は、その名のとおり、スキー場の一番下に位置するリフト乗り場だ。主に初心者が利用する斜度のゆるいゲレンデにあるため、子どもも多いし、まだ自信のない初心者の大人も多い。
 忍が第1リフト乗り場へ行くと二人の男が働いていた。一人は外で、お客に声を掛けながら、リフトに誘導する役。もう一人は、脇の小屋の中で机の上にひじをつき、アゴを載せて座っていた。
 「はい、どーぞ」と、妙に明るい声を出し、客を誘導するオジサンを見て、忍は直感的に、「ああ、この人が神田さんだ」とわかった。あいにく、その時間はリフトが混んでいたので、忍は神田に声を掛けるタイミングを逸し、ただその作業を傍らで、ぼおっと見ているハメになった。
 お客をリフトの座席に乗せる。同時に、次のお客を乗車位置まで導く。そして、また乗せる。その繰り返し、繰り返し。神田は淡々と同じ作業を繰り返し、小屋の中の男は、相変わらず、それをただ眺めていた。やはり「楽勝」であった。これはアタリだったかもしれない。いかにも単純で、アタマを使わない仕事にありついたことを、忍はあらためて喜んだ。
 「はい、どーぞ」と妙に明るい神田の声がして、小学生くらいの少女がスルスルと定位置へ進んだ。見るからに初心者然とした少女は、体を少し斜にかまえ振り向き、やってくるリフトの座席を真剣な眼差しでにらんでいた。少し距離のある忍にも気持ちが伝わってくるほど、少女は緊張しているように見えた。そして、リフトの座席が近づき、いよいよと自分が思うタイミングで、少女が着席を試みようとした瞬間、「ハイ」という、神田の妙に明るい声に、一瞬、少女の気が散って、バランスを崩し、スルリと座席面から滑り落ち、しりもちをついた。
 「危ない」と忍が声を出した、刹那、リフトは止まった。
 「お嬢ちゃん、大丈夫かな」と神田は、自分の体をリフトの座席とその少女の間に器用に入れ込んで、座席が女の子を直撃するのをブロックしていた。それは一瞬の出来事だった。少女の真剣な眼差し、神田の妙な声、少女のしりもちは見えたが、神田が体を入れたタイミングは忍の眼には映らなかった。
 止まったリフトの先では、座席がブラブラと揺れていた。
 「まもなくリフトは動きまーす。お客様はそのままの姿勢でお待ちください」。小屋の中にいた男がマイクを通じて放送していた。神田は女の子を起こし、軽く抱きかかえて、リフトに着席させた。
 「お嬢ちゃん、大丈夫?」。神田は少女の顔をのぞき込むように微笑むと、少女は「ウン、ありがとう」と笑顔で応えた。
 「お待たせしました。リフトの運転を再開しまーす」と放送が流れ、リフトはふたたび動き始めた。ブーンという鈍い音がして、女の子が遠ざかった。すると「はい、どーぞ」という、ふたたび、神田の妙に明るい声が聞こえた。

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 結局、忍が神田と話すことができたのは、その後、1時間ほど後だった。客の列が途切れた少しの間に、小屋の中から出てきた男が、「神田さん、替わりますよ」と声をかけた。「おお、わかった」と言って、神田は右手に持った箒を男に渡し、「アキラ、今日は結構集中しているな」と声をかけた。
 「なんすか、神田さん。オレがいつ集中切らしました!? いつも、集中、集中」と笑顔でおどけるアキラと呼ばれる男のオシリをポンとひとつ叩いて、神田は小屋の中に入った。
 忍は相変わらず、突っ立ってぼおっとそれを眺めていたが、「おい、そこの新人さん。神田さんが呼んでるよ」というアキラ(と呼ばれていた男)の声で我に帰った。小屋の中で、神田が忍を手招きしていた。

 「お兄ちゃん、えっと名前は佐久間忍ね。まあいいや、経験はあるの?」
 神田は、デスクに向かって腰掛け、視線はじっと小屋の外を凝視し、話をした。忍の名前を確認する瞬間だけ、デスクの上の書類に視線を落とした。
 「いいえ、スキー場で働いたことはありません」
 「そう、じゃあ、なんでよこしたのかなぁ。あれほど『経験者』って言ったのになぁ。ああ、誰かの紹介かぁ」
 「いいえ、求人広告を見て来ました」
 「書いてなかった? 『経験者募集』って?」
 「いいえ、自分の記憶では、たぶん……、普通のスタッフ募集でした」
 「ふううん、そうかぁ。また舐められたなぁ」
 神田は不服そうにつぶやいたが、視線はじっと小屋の外のリフト乗り場にそそがれている。
 それから、神田は視線をまったくこちらによこさず、「リフト係の心得」のようなことを、延々と忍に語って聞かせた。先ほど聞いた妙に高い声は別人かと思うほど、神田はぼそぼそと話をする。途中、ところどころ聞き取れないところがあったが、忍は聞き返すようなことはせず、たいした返事もせずに聞いていた。結局、なんども、いろいろな話をするのだが、要約すれば「この仕事は単純だけれど、油断すると大きな落とし穴がある。心してかかれ」ということだと忍には聞こえた。
 「お兄ちゃん、さっきからこの仕事眺めながら『楽勝』って思ってるでしょ?」まさに図星だったが、ハイとも言えずに、忍は口ごもった。
 「単純だよねぇ。誰にでも出来そうに見えるよねぇ。そうだよねぇ、そうだよねぇ」と、相変わらず神田はぼそぼそとしゃべりながら、視線だけは小屋の外の乗り場を見つめている。この間、神田の右手の人指しは、デスクの上の小さなボタンにかかっていた。ボタンには「STOP!」と書かれている。どうやら、これがリフトを止める緊急ボタンのようだ。
 それからしばらくの間、神田は黙ってしまったので、忍も同様にして、神田と外のアキラの仕事を眺めていた。小屋の中に椅子はあったが、なんとなく遠慮して、神田の右斜め後ろに立っていた。
 「お疲れさまです。神田さん、時間です」
 しばらくすると、男が2人が小屋に入ってきた。どうやら、神田とアキラは休憩の時間のようだ。
 神田はすっと席から立ち上がり、やって来た男たちに向き直った。
 「特に異常はありません。申し送りありません」という神田の妙に高い声が狭い小屋の中に響いた。小屋の外では、アキラが交代の男に箒を手渡していた。

 「忍くん、今日、なんかいいことあった? そのニヤケた顔……」
 加藤季代子は、運ばれてきた倶知安産ジャガイモのサラダを自分と忍の皿に取り分けようとして、忍の皿に鷄の半身揚げが残っていることに気づき、「すみません。小皿を」と店の人に注文した。
 「別に」
 「別に、って……。あり得ない。人を呼び出しておいて、なにか用事があるわけでも、ただニヤケているって、あり得ないから」
 季代子は取り分けようと箸でつかんだままのジャガイモのサラダを持ったまま、やや語気を荒げてそういった。「おまたせしました」と店員が小皿を持ってきたので、ようやく季代子はサラダを皿に下ろすことができた。季代子は、店員に軽く愛想笑いをし、「ありがとう」と言った。
 スキー場のリフト係の仕事を始めて約ひと月、久しぶりの早上がりのローテーションが回って来たので、忍は季代子を倶知安の街中の焼鳥屋に誘った。季代子は忍の小学校時代からの友人だ。高校まで、なにかとつき合いが続いたが、忍が東京の大学へ進学し、そのまま就職したため、一時期、音信が途絶えていた。1年前、忍が東京から倶知安に帰って来たとき、高校時代の同窓生数名が「お帰り忍ちゃんのUターンパーティ」なるものを企画してくれ、忍の帰郷を歓迎してくれた。その会に季代子も参加し、久しぶりに再会した。季代子は、高校を卒業後、札幌の短大へ進学し、地元・倶知安の小さな建設会社に就職していた。季代子の遠い親戚がやっている建設会社なのだと、誰かに聞いたことがあるが、よくは知らない。
 忍と季代子は恋人という関係ではない。事実、高校時代は別々に付き合っていた相手もいた。だが、なぜか忍は季代子とは息が合い、たまに会ってはつまらない話などをしていた。男友達とはまた違う、仲のいい女友達だった。1年前の再会以来、よくこうしてたまに、呼び出しては一緒に食事をしていた。大抵は、とりわけ用事や話題があるわけでもなかったので、食事中の会話は、小学校時代にいっしょに魚捕りに行ったことや、中学校の体育祭の騎馬戦で忍の乗った騎馬が戦わずに逃げに逃げて、最後に回りをグルリと取り囲まれた話など、昔話を肴にしていた。
 今日、午後の休憩時間、忍は急に季代子に会いたくなって、携帯に電話をした。季代子は、今晩は生憎、先約があるからダメだと言った。だが、その1時間後、急にドタキャンされたから、会えるというメールが入った。忍は、何度か行ったことがある、倶知安町の焼鳥屋の店の名前を返信した。

 「忍くん、子どものころからスキー、あんまし好きじゃなかったなかったじゃない。地元っ子のクセして、スキー場に馴染み薄いのに、リフト係ってのには驚いたわ」
 季代子は、忍が鷄の半身揚げに手を付けていないことに目敏く見つけ、食べないならもらうよと、ひょいと忍の皿の上から鶏をつまみ上げた。
 季代子のいうとおり、忍はスキーがあまり得意ではない。もちろん、滑れないということはないが、好きでもない。子どものころから、友達に誘われれば行かないこともなかったが、自発的にスキー場へ行くこともなかった。友達はスキーが上手くなるに連れ、滑る場所も変わり、忍が着いて来られない場所を滑るようになると、自然と忍を誘わなくなった。なので、忍はますますスキーから遠ざかり、高校時代は、あまりスキーをした記憶がない。
 高校時代、当時、仲のよかったガールフレンドがスキー場のレストランでアルバイトをはじめたとき、よく迎えに行った時期があった。その彼女とは、これも特別、着き合っていたということではなかったのだが、後から考えると好きだったのだと思う。しかし、ある出来事があって、彼女とは会わなくなった。彼女は、今、札幌で仕事をしていると聞いている。
 「やだなぁ。もう、あり得ないから。呼び出しておいて、ただニヤニヤ」
 「別に、ニヤニヤなんてしていさぁ。ただね……」
 「ただ、なによ? まあ、いいことあったんなら、それはそれでいいけどさ。呼び出しておいて、なにも教えてくれないんじゃ、こっちはつまんないわよ」
 季代子は、残りのビールをぐびりと飲み干し、忍のジョッキのビールの残り具合を確認してから、「すみません。中ジョッキ2つ、お願いします」と店員に声をかけた。

 忍はあの日のことを思い出していた。
 「兄ちゃん、やる気あんのか! そんなこともできねぇで、この仕事なめんじゃねぇ!」
 あの日の神田の声が響く。仕事を始めてしばらくの間は、その声が聞こえる度、心の底から無力感が湧き上がってきて、頭の天辺に突き抜けるように、軽く逆毛が立つ。大げさではない。本当に、身震いするような、得体のしれない嫌悪が、湧き上がったのだ。
 リフト乗り場の神田を訪ねた、その日、忍は1日中、神田のそばでただ仕事を眺めていた。仕事中、あるいは休憩時間に、神田は熱心に忍に「リフト係の心得」を語ってくれたが、半日も聞いていると、それも壊れたテープのループみたいに感じられて、忍の心の中でユニゾンで、同じ話を語ることができるようになっていた。正直、もういい加減にしろよ、と心の中で舌打ちをした。

 午後8時、最後のお客をリフトに乗せた。外にいたアキラが「お疲れさまです!」と大きな声を上げ、ゲートにチェーンをかけた。神田も小屋の窓を細く開け、アキラに「お疲れ!」と声を掛けた。
 神田の後ろにいた忍も、なんとなくつられて「お疲れさまでした」と声を出した。忍のリフト係1日目が終った。ただ、神田の背後に突っ立っていただけの1日だった。
 忍は後片づけは、どうするのかと思って様子をうかがっていた。片づけくらいは出来るだろうと思ったからだ。
 「アキラ、後はいいから、お前上がれ」
 と神田の声がした。
 「おっと、“鬼の神田”の千本ノックですか!?」
 とアキラが茶化した。
 「つまらんこと言わんでいい。早く上がれ」
 アキラは、はいはいといいながら、小屋の中から自分のデイパックをひょいと持ち上げ、肩に掛けた。そして忍に「がんばってね」と声をかけて、帰っていった。
 「おい、新人。ここに立て」
 神田は忍をリフトの乗車位置スタッフの位置に立つように命じた。
 「お兄ちゃん、今日、ずっと見てたから、もうやるべきことはイヤってほど頭ン中にたたき込まれただろう。やることは、あれがすべてだ。やってみな」
 神田と忍の間を、リズミカルに無人のリフトが通り過ぎる。
 忍は言われたとおり、その位置に立った。右手には箒を持ってる。忍の目の前を次々とリフトが通り過ぎる。お客はいない。きっかけがつかめず、まごまごしていると「おい、早くヤレ」と神田の声がした。
 「はい、どうぞ……」
 忍はようやく声を発した。しかし、それだけだった。声に続いて、体は1ミリも動かなかった。
 忍の目の前を、リフトが次々と通り過ぎる。
 「もう一度」
 忍の背後から、神田の低い声がした。
 「は、はい。どうぞ……」
 やはり、忍の体は動かない。それどころか、今日、まる1日眺めて続けて来た単純作業が、少しも思い出せなかった。
 声を掛ける。客を誘導する。箒はどこを掃くのだっただろうか? 「はい」と声をかけるのはいつだっただろうか? 忍は焦った。
 「はい、もう一度」
 「す、すみません」
 忍はますます焦った。すると、声を発するタイミングすらわからなくなった。混乱した。客がいないせいだ。客がいないから、きっかけがつかめないのだ。忍はそう思った。忍は振り返った。
 「あの……」
 「客がいないから、やりずれえか。やりずれえわな。でも、ヤレ」
 神田はそう言って、じっと忍を見つめていた。その視線は、淡々と厳しいものに感じた。
 忍は振り返り、ひとつため息のような深呼吸をした。昼間の神田の姿を思い浮かべた。単純な、繰り返し。ただ繰り返し。なにが、どういう順番だっただろうか。
 忍は、もう一度、深呼吸をし、「よし」とつぶやいた。
 「はい、どうぞ」
 それから、忍は無我夢中で動いた。その動きは、相当ギクシャクしていたと思う。でも、仕方ない。体が動かないよりはいい。声をかえ、手招きをし、座席の上の雪を箒でひと掃きし、リフトのバーを掴み、声をかける。繰り返す、それを繰り返す。客はいないが、だんだん、体が動くようになる。リズムが出てくる。忍は、少しうれしくなって、一連の動作を続けた。
 「兄ちゃん、やる気あんのか! そんなんじゃ、お客が座れねえよ」
 神田の容赦ない声が飛ぶ。
 「ちゃんと、座席の上掃けよ。カッコばかりで、雪は落ちてねえじゃねえか」
 とても、さっきまで見ていた神田のようにはいかない。単純な動作の繰り返しは、ともすれば手順が狂う。声をかけるタイミングがズレる。座席の雪を払うことができない。これは結構大変だ、と忍は思い始めていた。
 昼のうちに、忍はあることに気が付いていた。神田は、3〜4組先のお客まで見ている。大人か、子どもか。スキーか、スノーボードか。上手いか、初心者か。単純に、均一に見える一連の作業を繰り返しつつ、神田は、先の客の特性を判断し、声をかけるタイミングなどを微妙に変えていた。
 それがわかったとき、忍は少々感心した。
「なかなかやるな、このオジサン」と思った。

 「おい、もういいぞ」
 背後から神田の声がして、忍は作業を止めた。
 「お兄ちゃん、どうだ。難しいか? 出来そうか?」
 「はい、がんばります」
 「おう、がんばれ。この仕事、単純だ。まあ、そんな難しくはねえわな。でも、舐めンなよ。お客はいろいろだ。お客はお客の都合で動く。それ忘れんな」
 「はい」
 知らぬ間に、呼吸が少し上がっていた。
 「あとよ。もっと元気よく、声出せ。お前の声、暗えよ。お客は遊びに来てんだよ。辛気臭いのはダメだ。もっと、明るく、元気よく、笑顔で声出せ。兄ちゃんの顔、怖えよ」
 そういうと、神田は少し足を広げ、背筋を伸ばした。
 「はい、どーぞ」
 神田の妙に明るい声が闇夜に響いた。
 「はい、どーぞ」
 と、もう一度繰り返した。
 「おい、兄ちゃんもやってみな」
 神田に促されて、忍も姿勢を正した。
 「はい、どうぞ」
 「そうじゃねえよ。だから暗えって言ったんだよ。もっと明るく声を出せよ。いいか、こうだ。はい、どーぞ」
 やはり、神田の妙に明るい声が響く。
 「はい、どーぞ」
 忍も目いっぱい、大きく、明るく声を出してみた。
 「おお、やりゃぁできんじゃねえか。そうよ。その調子よ。はい、どーぞ」
 「はい、どーぞ」
 それは異常な光景だったかもしれない。人気のなくなった小雪の舞う夜のスキー場に、男2人の「はい、どーぞ」の声がこだまする。
 「はい、どーぞ」
 「はいどーぞ」
 神田が言えば、忍が繰り返す。
 「よーし、兄ちゃん、だいぶいいぞ。その調子でやってくれ」
 「はい、がんばります」
 忍は、ようやくほっとした。すると少し汗ばんでいることに気づいた。なにもしなかった、長い1日の終りに、ようやく少しだけ、仕事をしたような気分になった。
 「じゃあ、終ろう。明日からよろしくな」
 「はい、こちらこそよろしくお願いします。ありがとうございました」
 忍がそう言って、頭を下げたとき、スキー場のナイター照明が消えた。

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 倶知安町の焼鳥屋は、混み合っていた。ヒラフなどからは、少し離れているから、スキー客はあまりここへ来ることがない。ほとんど、地元の客ばかりだ。
 ガラリという戸の開く音がして、3人の男が店に入ってきた。忍は、先頭に入ってきた男の顔を見て、アッと思った。男はニセコでも有名なスキーヤーだった。男はテレマークスキーという、踵の上がるちょっと変わったスキーをしていて、その男の滑る姿は、スキー場のポスターで度々見かけていた。その男とはゲレンデでもよく会った。男は、リフトに乗るとき、いつも忍の顔を見て、微笑みながら「よろしくお願いいたします」と言ってくれた。忍も、笑顔で「はい、こんにちは」と挨拶をした。
 「すみませんねぇ。今日はいっぱいなんですよ」
 店の店員が、男たちに声をかけた。
 「へえ、それは残念だなぁ」
 そう言いながら、男は店内を見回し、忍の顔を見つけると、笑顔で軽く手を挙げた。
 忍は慌てて、立ち上がって、男に声をかけた。
 「板垣さん、どうぞ。ここ狭いですけど、半分どうですか」
 季代子は急に立ち上がって、声を上げた忍に驚いて、忍のパンツの裾を引っ張りながら、小声でつぶやいた。
 「ねえ、ちょっとなによ。誰よ、あの人たち」
 「どうぞ、板垣さん、コッチ、どうぞ」
 忍は季代子を無視して、手招きをしていた。忍は、季代子に視線を落とし、「いいから、ちょっとゴメン」と小声で言った。
 「悪いなあ。なんだ、彼女といっしょじゃないか。それはお邪魔だろう」
 「いいえ、ちっとも。この子は幼なじみです。ねえ、いいよね? どうぞ、どうぞ」
 どうもスミマセンねぇと言いながら、男が3人やって来た。季代子はなりゆきで「こんばんはぁ」と言いながら、テーブルの上の皿を寄せて、スペースを作った。
 「どうもありがとう。本当にすまないねぇ。えっと、ゴメンナサイ。よく顔は拝見するけれど、お名前を知らないんだ」
 「そうですよね。佐久間です。佐久間忍といいます。よろしくお願いいたします。こちらは、幼なじみの加藤季代子です」
 「佐久間くんね。いつもお世話さま。加藤さん、今日はお邪魔して、ゴメンナサイね。どうもありがとう」
 板垣は、東京のスキー雑誌の編集者だというほかの2人を紹介し、ビールを注文し、取りあえず5人で乾杯となった。小さなテーブルだったので、どうしてもいっしょくたんなってしまう。しかし、忍たちに遠慮した板垣は、僕たちは適当にやるから、と言って、意識的に話題を引き離した。
 それからしばらく、狭いテーブルで、2組の不自然な会話が続いたが、東京の編集者の一人がトイレに立ち、もう一人が電話をかけてくると言って席を離れたので、板垣が独りになり、忍に声をかけてきた。

 「佐久間くん、君はスキー場、そんなに長くないよね」
 「はい、まだ1か月くらいです」
 「そうか。でも、1か月かぁ。そのわりには、馴染んでいるなぁ」
 すると季代子が、突然、板垣に向かってしゃべりだした。
 「で、どうですか? 彼の仕事っぷりは? 彼は、子どものころからスキーあまり好きじゃなくって、たいしてスキー場にも行かなかったんですよ。それが、スキー場で仕事っていうから、驚いちゃって……」
 「よせよ」と忍は季代子を制した。
 「いいじゃない。こういう実際にリフトを利用していただいているプロに感想を聞くことは貴重でしょ。ねえ、板垣さん?」
 「よせったら」。忍は耳まで赤くして、少し声を荒げた。
 「佐久間くん? そうだね。佐久間くんは笑顔がいい。声も明るく、大きいし。彼がリフトにいるときは、とても流れがスムーズだよね」
 「へえ、そうですか。人によって、流れなんて違うんですか?」
 季代子は、口の中でレバーを噛みながら、板垣にさらにたずねた。
 「違うさぁ。全然違う。まあ、神田さんには敵わないけれど、佐久間くんもなかなのものだよ。そうか、1か月か。それなら、すごいんじゃないか」
 神田の名前が出て、忍はハッとして、板垣に恐る恐る聞き直した。
 「神田さんは、やはりすごいですか?」
 「そりゃあ、君が一番よく知っているだろう。神田さんのさばきは見事だよね。混んでいても、神田さんがさばくと、どんどん流れる。特にビギナーがたくさん来るようなリフトでは、まったく違うんじゃないかなぁ」
 板垣は知っているんだ、と忍は思った。忍は自分が評価されたことももちろんだが、神田の実力をわかっている人たちがいるということが、とてもうれしかった。普段の神田は、本当に地味だ。自分を主張するようなことはない。しかし、神田の仕事っぷりは実に見事だった。自分でやってみて、それが身に染みてわかった。神田が評価されたことが、忍はうれしかった。

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 今日の昼の休憩時間、忍は神田に褒められた。別に、特別なことをしたわけじゃない。最初、ギクシャクし、「兄ちゃん、危なっかしくて、見てられねえよ」となんども神田にお小言を言われていた動作が、最近、ようやく体がスムーズに動くようになった。忍自身、心なしか、アキラやほかの先輩たちがやっているときより、スムーズではないかと思うようなときもあった。
 そんなときは、「仕事を舐めンなよ。お客はいろいろだ。お客はお客の都合で動く。それ忘れんな」という神田の声が聞こえた。忍は、その度、「よし」と気合いを入れ直した。
 「佐久間、おめえだいぶマシになったな。最近、いい感じじゃねえのか」
 神田は、弁当を食べながら、視線もよこさずに、そうつぶやいた。
 「えっ?」
 神田から初めて「お兄ちゃん」じゃなくって、名前を呼ばれた。
 「佐久間、どうだ、続きそうか? この仕事」
 食べ終った弁当箱にポットのお茶をそそぎながら、神田がたずねた。
 「はい、大丈夫です」
 「そうか、大丈夫か。そりゃあよかった。大丈夫か……」
 神田は、少し微笑み、食べ終わって空になった弁当箱にお茶を注ぎ、ゆっくり揺らしながら、そうか、そうかと言いながら、お茶を飲み干した。
 忍は、うれしかった。なぜか、友だちの加藤季代子の顔が思い浮かんだ。今日は久しぶりの早上がりだった。
 「ちょっと失礼します」
 忍は神田にそう言って、季代子に電話をかけに席を立った。